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初出勤

Saturday, February 28th, 2009

研究室からの帰り道、凍った様な空気を斬り分けながらざわめく人間の間を縫い進み、その気温とは裏腹の落ち着きが無い雰囲気に、あぁ今日は所謂金曜日かと当たり前の事を考えつつ、しわくちゃのコートで俯きがちにパチンコ店に入っていくサラリーマンに軽蔑の眼差しを向け、私が考えていた事と言えば、こうやって世間が廻っていくんだなぁとか、なぜキョンがあのタイミングで幸せの青い鳥の話をしたのだろうかとかそんな事ではなく、世間は個人であるという私自身の5年前の結論を反芻していた。

今日は採用通知を頂いてから初めての出勤で、顔合わせや自己紹介と共に事務的な書類手続きやなんやかやを行ってきた。同期として入った人は2人いて、情報系の女の子と、電気系の男の子、どちらも年下だった。女の子は明るい感じで、こちらがどんな話題を振っても会話を会わせてくれそうなオーラを出していた。実際合間合間の休憩時間に於いてその才能は遺憾なく発揮され、私は重い空気を飲み込まずに済んだので非常に感謝している。対して男の子の方はと言うと私と同様にこういう場面に不慣れな様で、それはそれで私を安心させた。私は適当な表情を取り繕いながら2人に交互に話題を持ちかけ、少しお道化てみせつつ、差し入れのドーナツを頬張りながら考えた。

2年前の自分なら、初対面の独特な緊張感を持ったこの場からいち早く離脱して自分の世界に帰りたいと考えただろう。表面だけの人付き合い程、時間と金と労力と精神力の無駄使いは無いだろうし、そんな自分にも相手にも何の利益にもならない行為はばっさりと断ち切るべきで、それほど私は表面だけの人付き合いを疎ましいと思っており、避けて、避けて、こちらから断絶してきたのであるが、今日は違う様だった。様だった、というのは自分でも良く理解出来ていないからで、それがこれからの仕事仲間として無意識レベルで認識しているからなのか、まさか女の子がいるはず無いと思っていた所に居た故の驚きからなのか(本当に驚いた)、希望の職種にアルバイトとして入れた喜びからなのか、さて自分の精神に何か異常を来したのか、思案していた。

なんとなくそのまま帰る気にもなれず、調度研究室にも用事が有ったので赴いた。職場から研究室まで移動しても20分かからないという、学校帰りに働くには最高の地の利を、初めて実感する移動となった。研究室ではM1が4人、B4が1人研究をしていた。同期のB4はカーボンナノチューブを使ったナノワイアFETの特性を測定室で測定しており、少し時間を持て余した私はそれを隣で眺める事にした。現在ナノワイアFETは殆ど現存する物がなく、教授曰く”お金じゃ買えないんだよこれは”と言われる程希少なものである。ただの基盤なので、そこに顕微鏡で測定用の針を落として通電させるのだが、何しろ電極が20マイクロメートル四方程の小さな領域なので非常に難しい。現在測定している基盤には3つの素子が乗っているのだが、既に2つの素子が測定用の針を無理に押し付けた事によって駄目になっているという事が判明し、測定している本人は教授にどのようにして謝ろうかと必死に考えていた。彼の修士論文はこの素子によって書き上がる予定のはずだが、まだ大学院生の生活が始まる前に既に2/3を駄目にするという失態を、先輩方はさらに煽って本人の不安を増長させ、大いに楽しんでいた。私は自分の用事を済ませながらその様子を見て、人付き合いが全く以て無駄な訳ではなさそうだと改めて考えた。

そうして私は帰り道の中で、冷たい空気から逃げる様にパチンコ店に入って行くサラリーマンを見届けながら、世間で構成された社会には全く以て個人では対抗出来ないかも知れないが、しかし個人である世間には、個人である私との対話によって十分相互理解出来るものだと改めて認識していた。